「逃げるな」という言葉との付き合い方

生きていると、たまにこの言葉を投げかけられることはありませんか?

正しくは「投げつけられる」と言った方が良いでしょう。

この言葉は介護に関わっていても、たまに出てきます。

両親の介護から「逃げるな」

親の借金問題から「逃げるな」

仕事や学校でもあるかもしれません。

苦手な上司から「逃げるな」

合わない学校生活から「逃げるな」

誤解がないように事前にお伝えしておくと、逃避を推奨する話ではありません。

この他人が安易に放つ「逃げるな」というワード。

これをしっかりと考察していきたいと思います。

そしてもし、このワードに縛られている人がいたなら、違う選択肢を選ぶことで豊かな人生になることだってあると言いたいのです。


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逃げる=悪?

わたしのエピソードです。

親の介護に関わっていると、たまに他人からこのワードを放たれました。

「長男やけん逃げられんもんね?」

「お前はひとりっ子やけん逃げられんぞ」

「周りに迷惑がかかるけん逃げるなよ」

わたしはこの言葉には結構苦しみました。

最初に聞くと「確かにそうだよなぁ」と思ってしまいます。

しかし冷静に考えると違和感を思えます。

そもそもに親と一蓮托生になる必要がないからです。

働いているときも同様でした。(これはわたしの能力不足や諦めの良さが災いしている点はあります)

この「逃げるな」と言っている方々。

大抵は無関係な人たちです。もしくはうっすらとだけ関係がある程度です。

しかも、その逃げてはいけない理由というものが実に曖昧です。(同様のワードに普通○○があります。大抵は言ってる人にとっての普通です)

わたしたちは、今まで生きたきた過程で「逃げてはいけない」と刷り込まれ過ぎているのかもしれません。

逃げちゃいけないと自己暗示をかけるシンジ君。終始しんどそうです。

「逃げ」ではなく「避難」

わたしの妻のお父さんがこう言ってくれたことが、今でも大きな救いとなっています。

「それは逃げじゃなくて避難」

「避難」なんと前向きで素敵な置き換えでしょう。

本来、生き物は生命に危険を感じたら「避難」します。

もっと言えば危険が及ぶ前に避難。これは防災でも鉄則です。

しかし何やら介護や仕事では、苦しくなっても精神論が振りかざされるような気がしてなりません。

楽しいことばかりでない仕事や介護、若い世代なら学業や学校生活。

本人のキャパ以上に歯を食いしばって耐えるあまり、うつ病や引きこもり。ひいては自殺といったケースに発展してしまう事があります。

それこそ悲劇です。

「逃げるな」と言ってくる方々の多くは、そこまで考えていません。

自身の価値観と照らし合わせて「それくらいは逃げるなよ」と言っていることがほとんどです。

戦時中は逃げることを「転進」と言っていたそうです。

その表現の是非は置いておくとして、生きていく上ではこの「転進」を活用した方が良いと思っています。

なぜなら進むことは諦めていませんからね。

生きることを諦めてさえいなけば「逃げ」ではないのです。


「逃げる」ことのリスク

一応、逃げることにもリスクがあることにも触れておこうと思います。

結論から言うと「自己成長の機会損失」だと思います。

適切なストレスは人の成長に欠かせないことは間違いないでしょう。

わたしはベランダで園芸をやっているのですが、植物にもストレスは必要です。

常に快適に水や肥料を与え続けると、不思議と生育不良に陥ってしまうのです。

植物の根は土が乾いて水がないときこそ、さらに根を伸ばして遠くの水が吸収できるようになるそうです。

そして根が張ることで枝葉が茂り、豊かな実や花ををつけることができます。

植物もストレスを与えた方が育つ、人も同じ
枯れた枝葉を切り落とし、水を控えめに与え見事に返り咲いたペチュニア

人間も同じで、「ちょっと嫌レベル」の問題から逃げ続けていたり、ひたすら快適な環境で過ごし続けたらどうなってしまうかは容易に想像できると思います。

しかしこの見極めは実は難しい。

本人はまだ頑張れると思っていても、実は心や体が悲鳴を上げていたりする事があります。

真面目な人ほど「まだまだやれる!」「やるしかない!」と頑張ってしまいます。

わたしは介護に関しては、知らず知らずのうちに自分が壊れてしまわないように「撤退ゾーン」というものを設定しました。

具体的にいうと
「月に手出しするのは○○円まで」
「施設探しや手続関係の労力は一切惜しまないが、同居はしない」
「入れる施設の月利用料は○○円まで」
といった、ここまでしかやらないという線を引きました。

これを超えるとわたしの家庭がおかしくなってしまうからです。

わたしの心身に与える影響、経済状況、家族に与えるストレスなどが良好に保てず、結果として介護も継続できなくなるからです。

いわば生命や家族の危機を迎えるから撤退すると言って良いでしょう。

そうならないように避難する「状況」「方法」をあらかじめ設定しているのです。


親を放ったらかしにできるのか?

では避難するとは言ったものの「実の親を放ったらかして避難できるのか」と考えると思います。

答えは、放ったらかし以外の選択肢がたくさん存在します。

介護サービスを活用する。
収入が少ないなら様々な減額申請や生活保護制度などの公的制度を活用する。
借金があるなら自己破産を視野に入れて法律相談に行く

当初わたしは自分の親に生活保護を受けさせたり、自己破産させることには大きな抵抗がありました。

なんとなく親不孝な気がしたからです。

もちろん親自身もそんなことをするつもりもありません。

しかし、本来は条件が合えば困っている人を救済してくれる立派な国の措置です。

不正受給をしようとしているわけではありません。

法の抜け道を探して脱税しようとしているわけでもありません。

生活保護や自己破産のイメージが先行し、どういう制度か正しく知らないことで、受けれるはずの福祉制度を使わず(使えず)必要以上に親子で苦しんでいる人もいるように思えます。

わたしの両親は生活保護や自己破産は条件が合わずで申請していませんが、他の公的制度を活用しています。条件が合い必要に迫られたらその他の制度も活用しようと思っています。

現にわたしの両親は、高額の借金を抱え、貯金ゼロ状態だったにも関わらず、適切な医療処置を受け施設暮らしを続けています。

わたしの両親のように老後資金も作らず自由に生きることは推奨しませんが、そのような状態でも両親は毎日温かいご飯を食べ、清潔なベッドで寝ています。

使える制度を適切に使ったことで、結果として両親は安心安全な暮らしを維持できており、わたしの家族も必要以上に困窮せずに済んでいます。

介護発生時当初の両親の望みはこうでした。

在宅で暮らしたい。
嫌いな夫の介護は受けたくない。
自分の年金は妻のために使いたくない。
自分の抱えている借金は息子が解決して欲しい。
家には愛着があるから売却しないでほしい。
持ち物の整理は自分が死んでからにして欲しい。
お金に困ったら息子に言えばなんとかしてくれる。

こんな願いをまともに受けていたら、こちらが倒れてしまいます。(実際、介護初期はまともに受け過ぎて精神的に倒れてしまいました)

だからわたしは公的制度を使って、付き合えない部分からは避難したのです。

もし、同じような状況の方がいたら「避難」して良いんです。

そうすることで、また笑って話せる瞬間が来るかもしれません。

あえて言います。

時には逃げて良いんです。

介護、時には逃げたっていい

周囲に迷惑をかけてしまうことが不安な方へ

介護に限らず仕事や学校などで「もうこれ以上は無理!でも周りに迷惑がかかるから…」と不安に感じている方もいるかと思います。

実際にわたしもそう感じていましたし、介護の過程でたくさんの方に迷惑をかけてしまったと思っています。

しかし、こう考えてみてください。

人は生まれてから死ぬまで、誰にも迷惑をかけずに生きていけるのでしょうか?

もし迷惑をかけてしまったと思ったら、状況が落ち着いたら違う誰かでも良いから、できることで返していこう。

人は迷惑をかけないために生きているのではありません。

一生懸命にできることをしたとしても結果が出ない。期待に応えられない。こういったことの方が多い気がします。

わたしの場合は介護前後に退職、転職、休職などを経て迷惑レベルで言えばかなりの度合いだったと思います。

もうそこで関わった人たちとの接点は無くなってしまいました。

だから謝ることもお返しをすることもできません。

一時はそのことで落ち込み、「もう街を歩けない」レベルで自己嫌悪に陥りました。

しかし、考え方をこう変えてみることにしたのです。(5年近くはかかりましたが)

迷惑はかけてしまったが、お世話になった分今をしっかりと生きよう。
直接は返せなくても、自分が誰かの少しでも役に立つような生き方をすればいい。
そして、もし偶然会ったときに恥ずかしくない生き方をしていよう。

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